こんにちは、ガネ子です。
今日は前回「精神科に入院ってどんな感じ?2つの病院の入院体験から①」の続きです。
医師の診察と治療
A病院
担当の医師は他の個人病院にも週に3回勤務に出ていて、診察は週に一度あるかないかでした。
夕方やっと入院患者の診察が始まっても診察室の前の廊下には診察待ちの患者たちが座るパイプ椅子がずらりと並べられ、1〜3分で前の椅子へ移動する流れ作業のような診察でした。
医師の病室への回診はありませんでした。
その代わり看護師さんが薬を持ってきてくれた時に、食事は取れたか、便秘ではないか、簡単な聴き取りをしてくれます。
A病院では毎日点滴を受けていました。
アナフラニールという点滴。A病院の私の医師担当の患者さんはほぼ全員この点滴をしていて、廊下で行き交う皆さん、点滴スタンドをガラガラと引っ張って歩いていました。
この点滴、なんだったのだろうと、今でもふと思います。私にとってはほぼ生理食塩水を点滴しているような感じでしたし、入院中は点滴できても家に戻ると点滴などできないので、その場しのぎだったのでは、と昔を振り返って思うのですが、きっと何か意味があったのでしょう。
A病院では心理士のカウンセリングもあり、医師にお願いして入院中カウンセリングを受けたことがあります。心の病=カウンセリングで良くなる、というイメージがあったので。
私が受けたカウンセリングではカウンセラーの人は黙っていて、私はひたすらぐずぐずえんえんと泣いていました。
「前みたいに元気になりたい」
「母親がいなくて子どもたちがかわいそう」
「私がこんなんで子どもたちや両親に申し訳ない」
を繰り返し、ひたすら泣く、鼻水を出す。カウンセラーの男性は何も言わずにうんうんと聞いています。何も言ってくれないので、涙が落ち着くとまた始まります。
「体が鉛のように動かない」「前みたいに‥‥」のエンドレス。
聞いてるカウンセラーも地獄だっただろうな。
この男性カウンセラーはいつも最後に「うつ病は治りますよ」とだけ言いました。
今の私だと、うつ病は再発するし、寛解しても完治などしませんが、と余計なことを言ってカウンセラーを茶化してそう(笑)
当時の私はそんな心の余裕もなく、泣くことで少しの間すっきりしますが、それはほんとに少しの間。
次も同じカウンセリングを受けて、ぐずぐずえんえん泣いて、毎回「うつ病は治りますよ」という同じありがたい(そう有ることが難しい)お言葉をいただいて、治ってないからカウンセリング受けてるのにと虚しくなり、3回ほど受けてやめました。
むしろ3回も受けたのか、カウンセラーお気の毒様でしたと今は懺悔したいです。
長くなりましたが、まとめると、A病院の治療は点滴と休養でした。
そしてガネ子が導き出した正しいかどうか分からない答え=重度のうつ状態の場合、カウンセリングの効果はない。
B病院
A病院にトータル7ヶ月おり、精神科の入院=点滴だと思っていた私はB病院に入院した初日に衝撃を受けました。
点滴をしている人がいない!!
ここはどこだ(何科だ)!!(笑)
医師の回診も毎日ありました。朝や、朝できなかったら夕方の短時間、先生が病室に現れ、あいさつと顔見せという感じでしたが。
回診だけでなく、一緒に朝散歩したり、畑にタマネギを植えたりしました。
当時研修医だった私より若い女医は、ちょくちょく病棟に顔を出していて、診察の時間ではなく、病棟で会った時に薬の話などをしました。
例えば、昼食後、飲んでいた薬がなくなっていて、どうして?と不安になって聞いたら
レキソタンとソラナックスって同じものなの。同じもの飲む必要ないでしょ。ひとつは残ってるから大丈夫
私はへぇ、そうなんだと、よくわかってないけど納得し、すぐに安心することができました。
また、ある時は廊下で
あ、先生、睡眠薬、前使ってたサイレースが良いです
サイレースってアメリカに持って行けないから使いたくないなぁ
アメリカには行かないから大丈夫です!
ははは。了解
今なら分かる。たぶん医師、アメリカで使用禁止されているサイレースを使いたくないと言っていたのでしょう。そんなこと知らない私はトンチンカンな答え。(ちなみにサイレースそんなに怖い薬ではないですよ。私は退院したらいつの間にかやめていました)
B病院では見た目で分かる右半身の不随意運動を治すために、いろんな薬を試しました。
そして一錠の薬が運良く作用して、めでたく不随意運動は止まったのです。
B病院では飲んでいたたくさんの薬の整理と、新たな薬による治療でした。
B病院は医師と患者の距離が近かったです。たくさん雑談しました。
正直なことを言うと、臨床経験のない研修医に最初は不安でした。今でいう親ガチャならぬ医者ガチャに外れたと思いました。
けれども、結果、私は彼女に救われたのです。
退院後も、家事が不安な私のために市の福祉制度を利用して1時間数百円くらいで、一緒に料理を作るヘルパーさんに来てもらえるようにしてくれました。
そうして今に至るまで、ガネ子はB病院を最後に病院に舞い戻って入院することはなくなりました。
ついでにB病院で、自分は産後うつだけど、カサンドラ症候群であることを知ったのです。
カサンドラ症候群
初めて聞く言葉で、自分自身全く気づきもしませんでした。カサンドラ症候群は、家族やパートナーがアスペルガー症候群(ASD)であるため、うまくコミュニケーション等がとれず、心的ストレスがかかることで不安障害や抑うつ状態といった症状が表れている状態のことをいいます。
私がうつ病になったと連絡した時、義母が「夫がああだと相手がなりやすいって聞くけど、そのせいかね?」と問われ、ああだと、がどうだとは当時は分からず「ガネ夫さんは関係ないと思います。産後うつって言われました」と答えていたガネ子。
後から思うと、なのですが、研修医の担当医が指導医である年配の先生と連れ添っての回診が月に一度くらいの頻度であったのですが、いつもガネ夫のことを女医の研修医に確認して聞いているので、なんで?とは思ってました。病気なのは私で、ガネ夫のことは関係ないのに。私のこと聞いてよ〜って。
指導医「旦那は?見舞いに来てるか?」
担当研修医「来てないです」
ガネ子「仕事が忙しい人だから、いいんです」
旦那のガネ夫が見舞いに来て治るものでもないし、来ても無口で、何か喋るわけでもないから、ガネ子としたらそんなことより
ガネ子「どうしたら、うつ、治るんですか?」
指導医「別れんと治らん」
こんな感じ。
いやいやいやいや。
ガネ夫のことはいいから。社会的に見れば成功している人で、金銭的にもそれほど困ってなくて入院もできてるし、思いやりはないけど、殴ったりのDVもないし。
「別れないと治らない」と言われた時、めちゃくちゃショックで、旦那と別れる=子どもと別れるってこと。そんなのむり、絶対できない、とこの指導医を心の中でダメ医者認定したのですが、実はガネ子も気づいてなかったことを、その時見抜かれていたんですね。
後から知った。
ガネ夫もガネ太郎も、甥も自閉症スペクトラム。
義母は言った。
「それはうちの血」だと。
そしてガネ子はカサンドラ。
「別れんと治らん」というのは、まあハズレて、良かった。
それでは、今日はこの辺で。
一つの見出しなのに思ったより長くなってしまいました。
次は、精神科病棟での、びっくり体験や、恋愛事情などなど
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読んでくださってありがとうございました。
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